まかない係雑記
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Nagoya hakugaku-hompo
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Wed, Apr 14 2004
イヤ汁を滴らせ、負け犬たちは行く
 すごーく売れている酒井順子著『負け犬の遠吠え』を読んだ。いやー、面白いです。この本や『結婚の条件』(小倉千加子著)が売れたことによって、世に大量発生している未婚の30代以上の女に、そろそろ世間の皆さんが目を向け始めたわけですね。

 「負け犬」の定義は、狭義には「未婚、子なし、30代以上」で、広義には「普通の家庭を築いてない人」のこと。

 小倉千加子は『結婚の条件』で、結婚の目的が階層(学歴と容貌の優劣に基づく)によって「生存→依存→保存」と変わると喝破している。酒井は、ここでいう「保存」つまり、自分の趣味や生き方を変えずに自己保存できる相手とならば結婚するが、それ以外とは積極的に結婚しないという、彼女自身がそうであるような高学歴で仕事を持つ独身女性に焦点を当てている。そして見た目はオシャレで華麗、中身は孤独な負け犬の性質やライフスタイルについて考察してゆく。

 例えば、負け犬は歌舞伎や狂言、落語などの伝統芸能に入れ込んでいたり、フラメンコやフラダンスなどを踊りまくっているとか。
  先日、昔のバイト仲間2名(40代独身女性)が、ともに歌舞伎フリークだと知り意外に思ったが、全国的にそうだったのか!ひとりはエアロビックで汗流してるし!2人ともオシャレで格好いいし。また、別の友人負け犬は、年に1度は大好きな海外に出掛け、自然食品を好み、豆を煮るのが得意なオーガニック女だ。そうそう、そうだよねと、大いに納得。

 思えば、中野翠が『ウテナさん祝電です』を出したのは今から20年前の1984年。私は「アグネス論争」(今や懐かし〜い!)のときに、初めて中野翠という名を知り、2、3年遅れで読んだっけ。当時30代後半、独身の彼女はこんな風に書く。

「他人はあてにできないと思っているのね。シッカリした松葉杖を引き当てるのを、いつまでも待っている気にはなれないのね、きっと。(ホント、いたずらに長い時間待ってしまった...)、だから、脚が痛かったり、ブザマな歩き方になっちゃったりしても、松葉杖なしで歩いてみたいと思っているのね、きっと」

 それは堂々たる「負け犬」宣言であった。群れに入らず、自分の感覚だけを頼りに「嫌なものは嫌」とはっきり言い、世の「常識」に媚びない。でも決して糾弾型にならず、軽やかに洒落っけたっぷり。(当時22、3の私は、そうやって生きていっていいんだ!と感激。少なからず影響を受け、結果として広義の負け犬となったわけだが...)。

 当時は、開き直って気楽な反面、風がビュービュー吹く荒野をズンズンと独りで突き進んでいくキビシさもまだ漂わせていた。そこがカッコよくもあった。
  ところが、20年を経て負け犬が大量発生し、世間のプレッシャーをはねのけるだけの一大勢力となった。そりゃあ、もう、普通にまったりとしたものよ。でも、そのまったりは成熟でもあって、ここに至りようやく酒井のような、ひねくれるでもなく、天の邪鬼でもないウイットに富んだ余裕ある態度が生まれたとも言える。

 酒井の基本スタンスは「既婚子持ち女に勝とうなどと思わず、とりあえず『負けました〜』と、自らの弱さを認めた犬のようにお腹を見せておいた方が、生きやすいのではなかろうか?」だ。
  「世間」が悪い!と、やたら対立するのではなく、「世間」に自分のお腹(柔らかくて弱い部分)をさらしつつ歩み出し、自分を位置づけようとする試みである。それは、自覚をもった大人にしかできない態度であり、自分を、本当にしっぽを巻いて逃げる負け犬と規定する者には決してできないことだ。「酒井負け犬」は、テヘヘと舌を出し、しっぽをフリフリしているお茶目犬って感じ。

 そして、ウームとうなったのが「イヤ汁」のくだり。イヤ汁とは「おっかけに熱中する人から滴る、モテなかった過去というものが煮詰まってできたようなイヤ汁」のようにあらわす、イヤーな汁のこと。伝統芸能や旅行など何でもよいが、何かにハマっている依存症の人から「欲求不満とかあがきとかいいわけとか嫉妬とかいったものが、ドロドロに混ざった上で発酵することによって滴る」ように感じられるという。
 酒井は、自分からも往々にしてイヤ汁が出ていることを自覚し、「せめて自分を棚に上げて他人のイヤ汁を差別しないようにしたい」という。この人、好き勝手に生きつつも、そういう自分を冷めた目で見て、居住まいを正そうとしている。いわゆる自分ツッコミ。そのバランスの取り方が面白いのだ。

 イヤ汁は、別に負け犬だけから大量に出ているわけではなく、「勝ち犬=既婚女性」からだって出ている。雑誌『Story』に取り上げられるような、金持ちの旦那と、有名私立幼稚舎に入るような子どもたちの揃った家庭を築いた上に、「自分らしさ」まで求めて趣味に熱中していたりする究極の勝ち犬主婦からだって、往々にして滴るのだ。(彼女たちは『結婚の条件』に登場する。)
  イヤ汁は、勝ち犬負け犬を問わず、他を省みずに自分たちが特権的な層にいる(いたい)という人々の、エゴイズムの固まりから発するのかもしれない。

 一方、娘の保育園では、パートで家計を支え、二の腕を太くして家事育児をほとんど担当し、夫の親まで面倒見ているような快活な母親たちに出会う。勝ち犬ではあるが「勝ち組=経済的に裕福な階層」とはいえない彼女たちから、イヤ汁と反対の、神々しい汁がほとばしっているように見えたりする。女なんだけど「男気のある」態度だなぁとも思う。自分にはそこまでできない・・・。しかし、それはそれで大変なのだ。
 世の親の中には、魔が差して、パチンコをやっている間に子どもを車で熱中症にしてしまうような、「鬼汁」を出す人だっている。(保育園の母親たちは、そんなことはない)。が、人間はうまくいっているように見えても、ときどき居住まいを正さないと、いつだって醜く堕ちてしまうのかもしれない。

 勝ち犬であれ負け犬であれ、金持ちでも貧乏でも、現実では、どこかいびつに偏って生きているのだし、近代の宿命としてエゴイズムからはなかなか逃れられない。せめて、ときどき自分のイヤ汁にハッとして、他の人に腐臭をまき散らさないような形の、自分なりのいびつさに作りあげていきたいわけである。
  それは「ナンバーワンよりオンリーワン♪」で有名な「世界にひとつだけの花」で歌われるように「ひとりひとり違うたね」によってオンリーワンが約束されたかのような明るい道ではなく、あがきながら間違いながら、恥と迷惑をまき散らしながら、ごくたまに誰かとスキップするかもしれないけど、基本的にはひとりで歩く道だろう。その点では20年前の中野翠から大して変わっていない。

 でも、もはや勝ち犬と負け犬が対立する時代は「世間」の期待に反して、いつのまにか終わっているのではなかろうか。というか、意味がなくなっているのでは?
  勝ち犬はいつ負け犬に転落するかわからないし、「自分らしさ」を求める勝ち犬主婦の感性は、かなり負け犬に近いものがある。闘いの終わりを負け犬の側から、そっと告げているのが『負け犬の遠吠え』なんである。
 そして今後は、男女ともに、小倉千加子が言うような経済的な階層としての「勝ち組」「負け組」の差の方が深刻になるだろう。

Posted by HH at 01:01 KDT
Updated: Thu, Aug 5 2004 00:06 KDT
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