まかない係雑記
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Fri, Apr 8 2005
目の奥に残る書店員魂
なごや博学本舗のイベントまで1カ月を切った。毎回、頭を悩ませているのが宣伝。サイト来訪者は増えてきたとはいえ、まだまだ。そこでチラシを印刷し協力を得られる映画館や書店、中古レコード店、大学などに置かせていただいている。

つい先日、ある大型書店に行ったときの話。アルバイトが大半で、チラシの話ができるのは店長だけだった。
「4月に名古屋で行う、ジャーナリストの日垣隆さんのトークイベントを主催するものですが、このチラシをあそこの掲示板に貼っていただけないでしょうか?」
と、チラシを見せる。店長はスーツを着た40代男性。じーっとチラシを読んでいる。10秒20秒30秒。あら?日垣さんを知らないのかなと思い、
「あの〜、最近では『世間のウソ』『売文生活』という新書がよく売れている方なんですが…。」
「む〜。有料ですね、これ。む〜…」
「有料といっても、会場や講師の交通費や薄謝をまかなうためでけで、私たちが利益を得るようなものではないんです。手弁当の手作りイベントで…」
と、こちらの立場を説明するが、あまり聞いていないみたいで、なおもチラシをにらみながら苦悩の表情。
「む〜…(間)…では1枚だけ貼りましょう。」
「あ、ありがとうございます。すごい方を招いても、私たちが非力でイベント自体を知らないファンの方がいます。本屋さんに寄られた読者の方に、少しでも告知することができたら、ありがたいです。」
と御礼を言うと
「ちょっと(怒)、告知とかいうと、このチラシを返しますよ。」
「は?」
だんだん店長の目がつり上がってきた。
「店にあるパンフレットは有料で置いているんです。だから掲示板のチラシも、入場無料のセミナーやイベントだけ。でないと有料で置いている会社から文句が出ます。このチラシを貼るのは、日垣隆さんだからです。本来だめなものを店長の裁量で貼るんです。告知とか宣伝とかいうと、ほんとに返します。」
目が怖い。せっかくのチラシを返されたら元も子もないので
「いや、何でもいいです。とにかくよろしくお願いします!」
と言って店を出た。

実は、大型書店は外部の自主イベントのチラシには非常に冷たい。企業の広告やパンフレットを有料で置いている手前、神経質にならざるを得ないのだ。このチラシならばと思うものは企業広告とは別に置けばよいのであるが、その判断のできる人がいないので、結局全てダメということにしている書店が多い。ある大手書店からは「社の方針として、チラシを置くことはできません」と言われた。何とも大げさな。
確かに、今、書店をとりまく状況は厳しい。でも「書店に行けば、面白い地元のイベント情報が手に入る」というのは、ネット書店では得られない大きなプラス点。その書店に足を運ぶきっかけにもなるのになあ。

ともかく、そのように非常に世知辛い状況にあって、「日垣隆」という名を見て、自分の裁量で判断し、すぐ目先の利益につながるわけでもないチラシを貼ると言ってくださったJ書店の店長に、書店員としてのプロ根性を見ました。心より御礼申し上げます。

Posted by HH at 18:21 KDT
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Thu, Mar 31 2005
[追記]万博でとほほ
3月31日、万博協会は、小泉首相の見直し指示に対応し、「手作り弁当」についてのみ、持ち込みを認める方針を明らかにした。これだとコンビニおにぎりやデパ地下の豪華弁当はやはりダメ。そういう場合は持参の弁当箱に入れ直せばわかりゃしないだろうが、そこまでするかな?
いずれにせよ、またしても不満の声が上がりそう。(客足の伸びない飲食店からも。)
昨日発言がニュースで流れたことで、現場の判断であろう、正式な決定のないまま、持ち込み弁当への対応を変えていた。ところが2つの会場で対応がバラバラ。とほほ。
それにしても小泉首相は、わざわざ会見で言うところがあざといなあ。さっさと経済産業省に指示すればよいことなのに。庶民の空気だけは察知して押さえるところは小泉らしいが、内容がどうでもいいような超小粒ネタで、またとほほ。

Posted by HH at 22:31 JST
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Wed, Mar 23 2005
●万博によせて その1
愛知万博が始まろうとしている。

会場では本番に向けて内覧会があった。リニモは乗るために最大90分待ちのうえに乗過ぎで立ち往生、入場に1時間、コンビニ弁当を買うのに30分、人気パビリオンは見られないし、本番より少ない来場者なのに客がさばけず、もうてんやわんやらしい。

私は万博そのものには反対ではない。1970年の大阪万博のときは、幼稚園だったが連れて行ってもらってよかった。混雑して、あまり多くのパビリオンを見られなかったと思うが、後日幼稚園で、せっせと太陽の塔とポップコーン売りをねんどでつくった記憶がある。実際に見たのかテレビか定かではないが、ソ連館やオーストラリア館など美しい建物も鮮明に覚えている。中でも子供が好きだったパビリオンは、手塚治虫のプロデュースによるフジパン・ロボット館。青と黄色のしましま模様で芋虫のような建物と、マンガから抜け出したようなロボットたちが音楽を奏でたりするものだった。

実は、このフジパン・ロボット館は大阪万博の後「愛知青少年公園」に移築されていた。遠足の子供たちに人気だったし、大人になってから行ったときも、古くなって機械の故障はあったが、デザインはちっとも古くなくて新鮮だった。
ところが、1993年に老朽化を理由に建物が取り壊された。仲間うちでは、どうしてあの建物を保存しないのかと怒った。ロボットだけはしばらく公園内の建物に移され音楽を演奏していたが、2002年には公園そのものが廃止された。この公園跡こそ、愛知万博のメイン会場!である。

もったいない。ノーベル平和賞のマータイさんじゃないけど。愛知万博でも、進化したロボットは売り物のひとつである。日本で「人間の友だちのようなロボット」のデザインがなされるのは、間違いなく手塚治虫の影響。ロボット館のロボットたちとの「新旧の競演」ができたらどんなに意義深いか、惜しい。

もともと中沢新一の思いついた「自然の叡智」というコトバによって、愛知万博は迷走した。もともとの会場予定地(現在の瀬戸会場)は「オオタカの営巣地」だとわかって縮小され、それなりに環境保護派に配慮した形とはなった。堺屋太一が関わったかと思えば降りて(上海万博の顧問へ)、しかし結局誰が関わるにせよ、トヨタと電通の博覧会であることには変わりない。

私の立場は「お金があるのなら、お祭り騒ぎもよいでしょう」というもの。愛知県はトヨタ様々。名古屋駅前で建設中の「豊田毎日ビル(247m)」にはトヨタの海外関係の部署が入り、3000人が移動してきて働くそうだ。トヨタが好調ならば県民にも余裕が出る。まわりまわって私だって食べていける。
万博でもトヨタは相当なお金と人を投入した。未来の車やらロボットの姿を見せるそうだが、こんな大規模な見本市ができてトヨタが損することはあるまい。

しかし、トヨタの隆盛を喜んでばかりもいられない。万博景気の余波で、会場付近はもちろん、会場でないところも変貌が激しい。気になるのは、郊外型ショッピングモールが名古屋の中心にできたり、ビルに併設された巨大観覧車や、ラーメン横町など、娯楽がますます大味になってきていること。
人が集まるのは景気がいい証拠。もちろんそういうものはあっていい。が、約束された・わかりやすい楽しさばかりが増えるのと引き替えに、複雑な・わかりにくい、地味で・貧乏くさいものはどんどん消えていく。セコ道(路地)を愛する者としては寂しさも増す。
考えてみれば高度成長、バブルと、ときどき加速する開発の波の華やかさにまぎれて消えていったものは多い。ロボット館もそうだった。できれば残したいし、無理でもせめて、消えゆくものへの親しみを覚えておきたい。

(下へ続く)

Posted by HH at 21:57 JST
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●万博によせて その2
ところで、開幕直前なのでついでに書いておく。
愛知県の知名度の低さなどから、電通が宣伝作戦を繰り広げても東京や大阪での関心はいまいちと言われる。しかし、物見高い、つまり評価の定まったことには惜しみない野次馬根性を表す、愛知県民はこぞって出かけ、それに今やイケイケの中国人が大挙して来ると予想される。
中国語通訳をしている知人によれば、万博協会は何でもボランティアで済ますから、プロには魅力がなく、結局そこそこの通訳しか集まらない。が、プロの通訳には中国の旅行社などから仕事の依頼が次々と舞い込んでいるそうである。

もう一つ、今、愛知県民の怒りを買っているのが、弁当持込の禁止だ。私の町内でもかなり怒っている人がいたし、中日新聞さえ怒っている。テロ対策、食中毒対策というが、実際は、会場内の店への配慮が大きい。ほんとに会場内で来場者の食事をすべてまかなえるのか? 
食べ物の恨みは恐ろしいよ〜。きっと、なし崩し的に「コンビニ以外は会場内で調理した物に限る」というルールは無視され、配慮から1日1000食に限るはずのコンビニ弁当も10倍くらいには増えるだろう。もうコンビニはウハウハ。このおいしい仕事、長久手会場はサンクス、サークルK、ファミリーマート、瀬戸会場はポケットコンビが受けた。となりのトトロのサツキとメイの家の予約を一手に引き受けているのは、ローソンだけど。

さらにもう一つおまけに地元住民からのネタ。メイン会場付近には駐車場はなく、3キロ以内の道路は通行禁止(幹線道路以外・8時から18時)の規制がある。地元住民以外は、車を遠く離れた駐車場に止め、シャトルバスで会場に入る。だからシャトルバスは3000円の駐車料金を払って車を止めた人だけのもの。駐車場の近くに住む人たちは、シャトルバスに乗れないのである。
とくに比較的会場に近い駐車場の近隣の人は?である。比較的近いといっても数キロある。誰もが歩けるわけではない。しかも車もダメ。どうすりゃいいのと腹を立てた地元住民たちと協会とで今、話をつけているらしい。多分、何らかの妥協がなされるであろう。地元を怒らせると怖いから。

万博の総予算は1千億円以上といわれる。人々は額の大きすぎるお金にはあまり反応しないが、数千円には大いに反応する。弁当や駐車場の怒りをきっかけに意外に愛知県民が「ハッ」と我に返ったりするかも。「たいがいにしとかなかんわ!」と。

Posted by HH at 21:54 JST
Updated: Wed, Mar 23 2005 21:56 JST
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Wed, Jan 19 2005
そしてみんなゴジラになった
(以下、大いにネタバレあります。ご注意ください。)

 『ゴジラ ファイナル ウォーズ Godzilla Final Wars』を見た。いやー、愛すべき映画です。あまり期待してなかったので嬉しい。
 ゴジラ50年の集大成として、怪獣はオールスターキャスト、宝田明、水野久美、佐原健二の初期からのゴジラ俳優が出演しているのも、昔からのファンには嬉しいに違いない。全編がおもちゃ箱をひっくり返したようなお祭り騒ぎ。速いカットでぐんぐん進む。世界中の街が破壊され尽くしているのに、なぜか全体的に笑える。

 それは、ゴジラ50年を含め、他の映画やマンガなど、いつかどこかで見たようなの連続で、オマージュというか、パロディー満載だからだろう。今ひとつ深刻になりきれない。(笑いどころがたくさんあるが、それは書くのを止めておきます。見た方とだけ語り合いましょうね)。そこら辺が、「子ども向け」「ゴジラの最後があんなのでいいの?!」と、真面目なファンの怒りを買うかも知れない。でも、私は「愛すべき渾身のバカ映画」で終えてくれてよかったと思う。北村龍平監督の作品は初めて見たが、なかなかの力量だと思う。バカ映画でありながら、ちゃんと「対決」が描かれている。そこが『ハウルの動く城』と違うのよ。

 ヒロイン姉妹が菊川怜と水野真紀...。ヒーローはTOKIO松岡で、そのライバルがケイン・コスギ...。特撮でお金がかかるから役者はケチったのかと心配したが、意外に大丈夫だった。菊川と水野は女優としてはモッサリしているが、とっても美脚だったのだ。ドン・フライや舟木誠勝など格闘技系の人たちは、やはり肉弾戦で存在感があった。

 今回の話では、人間の役割が大きく、時間も長い。でも、中日、落合監督のオレ流のように、大スターはいなくても、それぞれが自分の持ち味を生かして普段より10%増の力を出した感があって、なかなかよかった。

 そして、何と言っても一番よかったのは、X星人役の北村一輝。美形なのに怪しく、頭もよく、血も涙もない奴だが、それでいてお茶目。北村の悪役ぶりだけでも見る価値がある。悪い奴だが、主人公との対決において卑怯なところはなく、最期も壮絶で、大いに納得。これを機に大ファンになってしまいました。

 泉谷しげる扮する猟師のおじさんと孫、人間と同じ大きさのミニラが出てくるところは、黒沢明監督の『隠し砦の三悪人』というか、『スターウォーズ』のロボットたちというか、とてもコミカル。ミニラは本当に可愛い。思うに北村監督は黒沢映画が相当好きなのでは?

 というのも、ゴジラが去っていくラストシーンは『椿三十郎』を思わせるから。椿三十郎は、「抜き身の刀」のような男。ゴジラもそうだ。怒りにまかせ何でも破壊しちゃう危ない奴。力はあるが、秩序からは遠い。「良い刀は鞘に収まっているものよ」と言われた椿三十郎だが、ラストシーンで椿を追いかける若者(加山雄三)を置き去りにして「抜き身」のまま不機嫌に去っていく。一方、ゴジラはミニラと一緒にでっかい夕陽に向かって海(東宝スタジオのプール。撮影終了後取り壊された)に去る。

 ゴジラがどこに去ったのかといえば、今回は間違いなく観客の胸の中だ。最後に、ゴジラが咆吼したとき、思わず私も一緒に口を開けて吼えていたのだから。ゴジラは「怒り」にふんぎりをつけて「大人」になった。ゴジラを胸に我々も「大人」になるのだ。

 そう感慨に浸っていたのも束の間、エンディングテーマで電子オルガンの妙に緊張感のない曲が流れて来た(音楽はプログレロックのELPのキース・エマーソン)。伊福部昭の音楽のように何かを鼓舞されるような感じは全然しない。何かずれてるというか、やるせなくて。「はいはい。自分のことは、もう自分で考えるから」と不思議と晴れ晴れした気分で外に出た。

Posted by HH at 00:01 JST
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Sat, Jan 1 2005
謹賀新年
 スマトラ沖地震の津波による死者はすでに12万人を超えています。それだけの人の、その日まで続いていた生活が、ある日を境にプツッと終わってしまったことに何とも言えない理不尽さを感じます。学校の帰り道に誘拐されて無惨な殺され方をした小学生の最期も理不尽です。なぜ、あの子なのか。どんな理由がついたとしても、親御さんには受け入れがたい理不尽だと思います。
 この私だって、いつ何時、理不尽な出来事で命を落とすかわかりません。不安がつのり、娘の手をぎゅっと握るばかりです。世の中には理不尽があると否応なく思い知らされ、昨日と同じように今日もまた生きられる、それだけで幸いかもしれません。
 大きな災いに対してひとりの人間はあまりにも無力です。が、どんな場所にも、それぞれの人がいて、その人だけの生活があるのだということは、いつも忘れないでいたいと思います。

 新年にあたり、なごや博学本舗のおもなスタッフを紹介します。

○サイト管理のほか、さまざまな調べものを得意とするのが今池さん。音楽好きで、トークライブの休憩時に流す音楽を選んだりもしています。[男]
○科学者にして、なごや博学本舗きっての論客が浦島太郎さん。専門外についても本当によく勉強していますが、時折見せる浮世離れした面がキュート。日記サイトのファンも多数。[女]
○時事問題や社会問題に明るく、話し上手の受付担当は、突破者の母をめざすU子さん。自宅には手料理を楽しみにする人々が集います。[女]
○チラシ印刷や受付など、経験をもとに強力に支えてくれている、もくもく舎さん夫妻。
○チラシを配布したり、宣伝に力を注いでくれる星子夫妻。いい味出してるおしどり夫婦です。
○道具や装置の運搬でいつも世話になるのが、T&S夫妻。さまざまな自主イベントや美術展覧会に関わる方々。顔も広いです。
○写真を担当するKさん。ミニコミにはいつも味のある文章を寄せてくれます。写真評論も手がける二児の父。
○アマチュア漫画家にして、和装好き。不思議な魅力を醸し出すA崎さんも受付担当。[女]
○最後に、私はまかない係のサケです。一番暇なので雑用と代表を引き受けてます。[女]

 ほかにも、助言を下さる方や、イベントに参加してくださる方に支えられて、かれこれ3年。なごや博学本舗は、トークライブを中心に、何か面白くて、他にない瞬間をこの世に出現させようとする、ちょっと物好きな人々の、出入り自由なゆる〜い集まりです。今年もトークライブをやります。どうぞよろしくお願いします!

Posted by HH at 10:05 JST
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Mon, Dec 13 2004
負け犬→オニババではない
 毎日新聞家庭欄で『オニババ』って何?という企画記事が掲載された(松村由利子記者、12月9日・10日朝刊)。
【妊娠、出産しないと、女性はオニババになってしまう そんな呼びかけをした本が売れている。『負け犬の次はオニババ?』と反感を抱く人もいるだろうが、果たしてどんな意図で書かれたのだろうか。...】
こんなリード文で始まる記事は、『オニババ化する女たち』の著者・三砂ちづるさん、『結婚の条件』の小倉千加子さんをはじめ計6名の専門家のコメントを載せ、駆け足ながらいろいろな問題点を指摘しているとは言える。でもイヤな予感がするのである。

「負け犬」が話題になったときに「既婚者=勝ち犬」VS「未婚者=負け犬」として、女同士の対立があるかのように「お宅の娘は負け犬?」みたいな特集を組む雑誌があった。この記事も、出産未経験者(未婚の場合が多い)VS出産経験者(既婚の場合が多い)の対立を描き出し、出産未経験者をダメだと切り捨てるなどと、女の生き方の対立があるかのようにマスコミが煽って、妙な「論争」が始まってしまうのでは、と心配になった。

 確かに三砂さんの本で「卵子にも個性がある...」とか、「非常にいいセックスの経験は...宇宙を感じるような経験ですので...」などと書かれるとちょっと引く。セックス、出産が女の身体に与える良い影響を大げさに言い過ぎているのではないかとも思う。また、フェミニズムにケンカを売っているように受け取られかねない部分もある。が、それでも「女性の身体性が失われている」と投げかけた問題は大きいと思う。女だけでなく男にも。それに三砂さんは、決して、出産すればオニババにならないと言っているわけでは「ない」のだ。そこんところヨロシク。

 たとえ経産婦であってもオニババ化することだってある。例えば、ヨン様に群がるおばさんたちの多くは出産を経験していると思うが、ここに大量のオニババ予備軍がいるといわざるを得ない。ヨン様の車に殺到するフィーバーは尋常ではない。(一説にはサクラがいたとも言われるが)。また、タダ(あるいは安い)と聞けば、とくに欲しくなくても、我先にと人を蹴散らして群がるおばさんたち。浅ましい姿をさらして恥じることがない。「ここは地獄の一丁目か?」と見まごうばかりのオニババぶりだ。

 『オニババ...』で、なるほどと思ったのは、【今の60代、70代の日本の女性あたりから、性と生殖、女性の身体性への軽視が始まったのではないでしょうか】ということ。三砂さんは「今子供を産む世代の母や祖母である60代、70代の戦後育児世代は、それまでの世代が経験してこなかった多くのことを通り抜けて来た。企業戦士の妻として家を守り、子育てという分業をこなしてきた。経済的にはレベルアップしながらも、夫婦はお互いに満たされていない。何かというと夫への不満をつぶやく。夫婦として葛藤を抱えたままの生活が続いた家庭の子どもたちに、そのような母の結婚観、出産観、子育て観が影響している」と言う。上の世代と切れているのは、何も今に始まったことではない。今の60代、70代と、その前の世代とのギャップはとても大きいのである。

 だとすると、非婚にしても少子化にしても、女性の身体性の問題にしても、すでに60年、70年前に最初のレールが敷かれていたわけで、簡単に処方箋が見つかるようなものではないだろう。三砂さんが「世代をつなぐ」と力説しても、実際どうやったらいいのか、なかなか難しい。

 三砂さんは海外で疫学専門家として女子の保健について取り組んできた現場の人であり、現場の感覚と自分の体験でものを言っている。だから読み物としてとても面白いし、逆に、論拠として弱いことにもなる。大体、性や恋愛にまつわることは、語るのが難しい。個々の体験や感覚に左右されるので、一般論で語ると「本当のこと」は逃げていってしまう。だから、何度でも見方を変え、行きつつ戻りつつ語るのがよろしいかと思う。センセーショナルなネーミング「だけ」に反応した、浅い特集記事は勘弁してほしい。職場で独身の女性に対して「子ども産まないとオニババになるらしいって」と無神経に言ったり、「お局さま」の代わりに「オニババ」と呼んだり、新たなセクハラ、パワハラの元にはなってほしくないなあ。でも、きっとそうなるんだろうなあ。

Posted by HH at 00:19 JST
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Mon, Nov 29 2004
アーヤ ありがとう
 その日、全国の「負け犬」に衝撃が走った!?
 超大物「負け犬」サーヤこと紀宮さまがいよいよご婚約へ!(←もはや説明するまでもないだろうが、負け犬は、30代独身子ナシのこと@酒井順子さん)
 新潟中越地震や、米軍によるイラクにおける虐殺など、しんどい話題の多い昨今、多くの国民が、つかの間の晴れ間が来たようにホッと胸をなでおろしたことだろう。で、相手はどんな人?都の職員?車好き?と興味がそこに集中しつつあるが、人々よ、もうサーヤとお相手をそっとしておこう。なぜなら、君たちが目を向けないといけないのは、サーヤではなく、いい歳になっても独り身でいる自分の娘や息子、友人、親戚や同僚なのだ。
 先日NHK教育で独身女性(一部男性)をスタジオに20人集めて、なぜ結婚しないのかを作家の石田衣良さんや社会学者が聞くという番組をやっていた。少子化の原因を非婚にしぼった企画はよいとして、どうもいまひとつ焦点がボケボケ。友人と、どうして『結婚の条件』の著者小倉千加子さんを呼ばないのだろうという話になった。やはり独身者には、最終学歴と仕事、年収をきっちりと示した上で発言してもらわないと現実は見えてこない。小倉さんならそう考えるに違いない。
 「子どもが出来ると好きなことがやれない」と語った女性はキャリアを持ちオシャレにも関心が高い。当然高学歴のはず。彼女のように、米テレビ『Sex and the City』(←地上波で放送開始。面白いよ〜)の主人公たちに近い都会のエリート「負け犬」は、心配しなくてもよいのである。好きに生きてるのだから。
 心配すべきなのは『オニババ化する女たち』(光文社新書)で三砂ちづるさんが書く「放っておいたら自分で相手も見つけられないような、メスとして弱い人」。三砂さんは、「少子化だから」という理由で独身女の増加を憂えているのではない。また、決して仕事に就く女性を非難している訳でもない。ただ、大した能力もないのに「個性だ」「キャリアだ」「好きなことを見つけなければ」というプレッシャーをかけられ、結局、お局呼ばわりされて単純労働に追いやられていたりする女を心配している。
 三砂さんは、女子保健に携わったてきた経験から、結婚、セックス、妊娠、出産を経験し、女という性を全うして生きるというオプションが軽視されることにより、身体感覚を失った女たちが、行き場のないエネルギーをもてあました挙げ句「オニババ化」すると言う。
 私事だが、娘の出産の時、破水して産婦人科に入院後、読書に熱中していたら、痛みは続くくせに陣痛が起きず、3日もかかって大変だった。また産後1カ月くらいで仕事を再開したところ、またたく間に母乳が出なくなってしまった。頭の活動と、出産という身体の活動は別物なのだと思った。出産に限らず、女の体のしくみをあまりにも無視していると、どこかに変調を来すのかもしれないというのは、何となくわかる。(『オニババ...』の話になると長くなるので、また別の機会にして話を戻そう。)
 自分のまわりを見てみると、親と同居している地味目の大卒女性が結婚してないケースが結構多い。仕事は、パートや契約社員だったりもするが、親と同居しているため経済的には余裕がある。何度か見合いをしたことはあるが、決め手に欠けた。差し迫って結婚しなければならない理由もない。そうこうしているうちに30歳を越え、いつのまにか親もうるさく言わなくなる。親も娘のいる生活は嬉しいのだ。もともと積極的な質ではないし、恋愛の機会はますます遠のく。これって、サーヤを同比率で縮小したものじゃない?
 こういうまったりとした状況を変えるのは、周りの人間の良きお節介であろう。サーヤの場合は、大なり小なり次兄の秋篠宮(アーヤ)がポイントとなった。サーヤの婚約に「ホッ」とした全国の人は、身近に「いいやつなのに地味で独身」がいないかどうか、今一度思い出してほしい。そして編集能力を発揮して、「この人とこの人はどうか」と考えてみてほしい。「お前に紹介されたくない!」、「こんな人を紹介されるとは、自分の評価は意外に低かったのか」等々、裏目に出ることもあろう。お節介する側の力量も問われる。が、そういうことも含めて、お節介というものを再評価してもよいのではないだろうか。

Posted by HH at 20:44 JST
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Tue, Nov 2 2004
根拠なき自信過剰の若者を叩くには
 たまたまNHKスペシャル『なぜ真相を伝えなかったか〜慈恵医大青戸病院・家族への報告書』を再放送で見た。同病院は2002年、前立腺ガン患者をずさんな手術で死亡させた。病院側は事故を認めて調査委員会をつくったが、形ばかり。遺族になされた回答は、責任逃れのお粗末なものだった。結局、執刀した医師たちが業務上過失致死で逮捕されるまで、病院はミスを隠し続けた。番組では、そのいきさつを遺族と病院側に取材して明らかにしていく。
 「白い巨塔」の世界が生々しく証言されていた。力を持っている教授の言葉は絶対。調査に当たったかなり良心的な医師も「私も組織の人間ですから、そのように(ミスを表に出さずに)済ませたいという意図はわかった。助教授は自立していないから教授に逆らえない」と顔と名前を出して語る。逮捕者まで出し、入院患者が40%も減り、病院側も危機感を募らせたからこそ、真摯に取材に応じたのだろう。その姿勢は評価できる。毎度思うけど、NHKも他人事なら、いい番組が作れるじゃん。
 それにしても、逮捕された30代の3人の医師は想像を絶するひどさだ。高い技術が必要とされる内視鏡手術なのに、患者への説明もいい加減で、同意書もない。病院内の倫理委員会への申請もしていない。執刀医は内視鏡による前立腺ガン手術は初めてだった。手術の様子が収められたビデオを見た外部の専門医は「この映像はつらいです。出血のコントロールが全くできていません。ですが、この時点ですぐに開腹手術に移行していれば死ななかったかもしれない」と涙ぐんでいた。
 開腹手術に移行するのは、それからずっと後のこと。リーダー格の医師が遅まきながら開腹手術を何度か提案したが、若い医師は「出血も大したことないし、もう少しがんばってみましょう」と安易に反対。器具で傷つけられた血管から血が流れ続けているのに内視鏡手術は続いた。準備もろくにせず、段取りも踏まず、経験も浅いのに、若い医師たちの、この根拠のない自信は一体何なんだろう。
 そういえばちょっと前、関西の大学のワンゲル部が軽装備で登山し、天候悪化で身動きがとれなくなったことを連想した。幸い全員救助されたが、リーダー(といっても、経験は浅い)は下山後の会見で「天候が崩れるのは聞いていたが、俺らならできると思った」と言った。「俺らなら」って...んな無茶な。
 慈恵医大のケースは、いつまでも「内視鏡ゴッコ」を止めるふんぎりのつかない医師たちに対し、とうとう麻酔科のベテラン看護師が「いい加減にしなさいよ!」と怒鳴った。医師たちはシーンとなり、それからようやく開腹手術に切り替えたのだが、もはや遅すぎた。
 根拠のない自信による失敗は若者にはつきものだ。そういう思いこみでエネルギーが湧くのだし、失敗から学ぶことは多い。でも、他人の命を預かる現場が練習じゃ困る。その失敗は取り返しがつかない。
 月並みな意見だが、やはり若者は適切に叩かれて鍛えられないと成長できないのではないだろうか。でないと、根拠のない自信を持ち続けたまま、わけのわからない事をやり続けてしまうのかもしれない。若者に問題ありとすれば、その原因の大半は大人の怠慢にあると思う。
 だが、名古屋で起きた、コンビニで立ち読みのマナーの悪さを注意して刺殺された事件は記憶に新しい。注意するにも、若者がいかに余裕がないかを察知しなければ逆ギレされておしまいだ。若者を「叩く」ためには技術が必要なのである。古武術の甲野善紀氏は、武術と同じく、例えば電車の中のトラブルでも相手の予測を裏切ることが大事だという。正攻法で注意するより、世間話から始めるなど、相手の予測と違う攻撃に出るのがいいと。うーむ。
 ふと思い出したのは名古屋が生んだ全国区の大スター、きんさん(故人)。あるとき歩行練習のため乳母車を押していると、暴走族の少年に会った。きんさんが何気なく「あんたも大変だなも」とか何とか話しかけたところ、少年はガーンと胸を打たれた。以来更正し、きんさんを慕って、ときどきお宅を訪れたという。大人になったかつての少年もテレビに出ていたし、多分本当の話。少年は、非難されたり無視されることには慣れていても、普通に話しかけれられる事は予想外だったのだろう。きんさんって、意図せずして達人級だったんだなあ。あやかりたいものです

Posted by HH at 23:39 JST
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Sun, Oct 3 2004
街の個室で寂しい気持ち
 超お値打ちなマンガ喫茶に入った。名古屋駅の西、ついこの間までパチンコ屋があったところだ。さまざまな料金設定なのだが、女性60分100円はかなりの安値(60分以降は10分ごとに100円ほどの延長料金が必要。男性は60分200円)だと思う。フリードリンクで個室。女性専用席もある。もちろんインターネットやDVDも。で、24時間営業。
 マンガ喫茶は昔からあるわけだが、このように進化したのは、ここ数年だろう。以前、博学本舗のイベントに遠方から来たお客さんがマンガ喫茶に泊まるといっていたのに驚いた。今や夜の時間つぶしにずいぶんと居心地のよい場所になっているんですね。オールナイトだと1,500円くらいで個室をキープできたりする。シャワーもあるし、お泊まりセットも販売している。
 私がマン喫をよく利用するようになったのはここ2、3年のこと。値段が下がってきたことが大きい。『王家の紋章』(現在49巻)など巻数の多いものは自宅に置くスペースがないので助かる。『ベルセルク』や『バガボンド』、『あずみ』なんかもマン喫でお世話になってます。このようにマン喫を愛用しているのだが、超お値打ちで利用価値も高い個室制のマン喫には今ひとつ馴染めない。何でだろう。
 そのマン喫の個室には、寝転がれるほどのリラックスシート。「わーい、誰も見てないし」と、靴も靴下も脱いでくつろぐ。店内は薄暗く、暗くて狭い部屋では自分の手元をスタンドで明るくする。個室といっても実は間仕切りだけ。隣の人のケータイの会話が聞こえる。すぐそばに人がいるのに姿は見えない。そんな空間でファミレスの安いドリンクバーと同じコーヒーを飲んでいると、とても寂しい。しかもイケナイことをしているような変な気持ちになってくる。で、つい選んだのが少女エロマンガ。少女の妄想はすごいが、ストーリーは無茶苦茶。絵も好きではない。ああ、何で貴重な時間にこんなマンガを選んでしまったのか...。ますますトホホな気持ちになった。
 そんな折、近所のうどん屋で週刊朝日(9月24日号)の東海林さだおのエッセイ「ひきこもりラーメン」を読んだ。東京にあるラーメン屋で、選挙の投票所のように隣が見えないように仕切られ、厨房との間にもすだれの掛かる半個室。一切声を出さずに追加注文までできるのだそうだ。その仕組みは味に集中するためらしいが、東海林さだおは「後ろめたさ」を感じ、ついコソコソと食べたという。でもファミレスで家族がちっとも会話をせず、自分のケータイメールなどに熱中する姿を見ると、今後、この手の店が増えるかもしれないと書いてあった。さすがは慧眼の東海林さだお。
 私も昔から喫茶店や大衆食堂、ラーメン屋などに独りで入って店の人やお客さんを見るのが好きだ。街の人ごみに紛れ、たまたま居合わせた人や通りすがりの人を観察する。他人なのに好ましい人を見つけては、独りで喜ぶのである。ところが個室は人を見ることもなく、人から見られることもない。そうすると自分が「匿名」の存在になったようで非常に心もとない。何せ、個室番号98番とか、番号で管理されるだけの存在だもんね。外回りの営業をサボっているサラリーマンや、チープにいちゃつきたいカップル、泊まりに利用したい人にとっては、薄暗い個室は好都合でしょうが...。マンガを読みにいくだけならば、そこまで「隔離」されなくても...という気がした。
 ※街の暮らしにおける寂しさについては、また改めて書きます。

Posted by HH at 11:38 KDT
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Fri, Sep 17 2004
『誰も知らない』の余韻に浸る
 ふと時間が空き、何か映画でも見ようかと思い立ち、スタッフ・浦島太郎さんの日記に触発され、『誰も知らない』にした。(これから見る予定の人は、以下は読まない方がいいです。)

 やはり役者が素晴らしいですね。撮影の間に成長期の子供たちが本当に大きくなり、それが役の成長と重なる。また、監督が構想してから20年以上温めた題材を、四季を通じて丹念に撮影したことで、「奇跡」のような時間がフィルムに刻まれている。
 ストーリーは悲しい。母親に捨てられて、子供たちだけで生き、起こるべくして不慮の事故が起きてしまう。でも、悲惨な話なのに、不思議と救いのない映画ではなかった。
 それは、監督が悲劇を母親や、社会のせいにすることを排して、母親と、子供たちの日常を、ただただ描き出したからだと思う。涙も出なかったし、強い感動もない。でも、見終わった後に、何気ないシーンがいくつもいくつも思い出されて「きっと大丈夫だ」という気持ちになる。
 「強い感動」ってやつは、意外に早く忘れてしまう。それよりも、日常の中での、毎日毎日の積み重ねの中での些細な出来事の方が、いいことも悪いこともずっと心に残り、ひょんなときに力になる。それに似ている。
 それにしても母親役のYOUは「おいしい」ところを持って行った。本当に愚かで身勝手なのだが、憎らしいほど憎めない(特にラスト近く)。母がいなくなっても、お兄ちゃんはクリスマスケーキ(ディスカウント)を買い、年越しそば(カップ麺)をみんなで食べる。母とそうした記憶があるからできることだろう。母は一時帰宅したときに、子供たちの髪を切ってやる。戸籍がないために子供を隠す生活だが、暮らしぶりが荒れていた訳ではないのである。
 母が再度出て行くとき、お兄ちゃんとドーナッツ屋で話すシーン。「学校に行きたい。お母さんは勝手だ」という彼に、「誰が勝手なのよ、勝手に出てっちゃったあんたのお父さんがいけないのよ」と言い、気まずい空気。一瞬の後、母親が「あ、学校出てなくて成功した人思い出した。○○○○」(←有名人の名が入る)とフォローすると、仏頂面だったお兄ちゃんが破顔する。こういうとぼけた味はYOUならでは。このとぼけた味は弟が受け継いでいて、ホッとすることしばしば。
 母と子は時には相手を傷つけてしまうのだが、やっぱり寄り添って笑える。それは、血を分けた実の親兄弟だからではない。日々の生活によって培われたこの家族なりの信頼関係ができているからだ。とりわけ兄弟姉妹の結束は固い。
 母親がもう帰らないと感じたお兄ちゃんが、意を決して弟、妹たちと久しぶりに外出するとき、玄関で妹の靴を出しながら素晴らしい笑顔を見せる。この柳楽くんの笑顔に心は鷲掴み。ヨン様以上なんだこれが。客におばさんが多いのは柳楽くん目当てか?
 そうやって出かけた「遠足」で、ドブ板の隙間から伸びる花を見て、「可哀想だね」とか言って無邪気に種を集める子供たち。おいおい。可哀想なのは君達だぞ!と突っ込みたくなるくらい、幸せなシーン。でも、同時に、はかなさも感じられるので、さざ波が立つように気持ちは落ち着かない。
 この映画では、誰も号泣しない。感情表現は抑えられている。結局、最後も母に会わずに終わるが、もし、彼女が末の妹の死を知ったら、彼女はやっぱり号泣するはずだ。戸籍を届けることができず、不幸にすることがわかっていても、殺せなかった命なんだから。でも、その手の感情表現をしないで「余白」があるために、かえって見る側があれこれと想像して、考えてしまう。地味な作品だが、心にちゃんと届く映画だった。

Posted by HH at 22:03 KDT
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Wed, Sep 1 2004
夏の終わりに「一度死ぬ」を考える
 アテネオリンピックが終わった。本舗スタッフ・浦島太郎さんがウェブ日記で憂えているように、テレビや新聞の感動安売り、ワンパターンぶりは確かにうんざり。アニマル浜口が「気合いだ〜」と娘を送り出したり、会場で前のめりに応援する姿をNHKが好意的に取り上げているのを見て、目眩を覚えた人は多いと思う。ま、でも視聴者も目が肥えてきているから、素人キャスターの無意味なインタビューになるとチャンネルを変えたりしながら、それなりにオリンピックを堪能したのではないだろうか。私は、たまたま見た女子バレーボールの決勝、中国対ロシアの白熱する試合に目が釘づけ。いやー、中国恐るべし。
 8月30日には、NHKスペシャルでいち早く五輪特集をやった。本放送の浮かれぶりに比べると、じっくりと構えたプチ・プロジェクトX風で、イラクのサッカー選手や、北島のライバルを揺さぶる精神戦など内外の選手のドラマを写し出していて、なかなか見ごたえがあった。
 私は、そのドラマの中に、銅メダルを取ったアメリカのシンクロチームのタマラ・クロウ選手が出るだろうと期待していたが、それはなかった。毎日新聞8月28日夕刊によると、クロウ選手は、昨年2月に自分の運転ミスで事故に遭い、同乗していたボーイフレンドを死なせてしまった。自身も重傷を負ったのだが、過失致死の罪に問われ、懲役90日の実刑判決。判事の配慮で執行は五輪後となり、帰国後に収監されるとのこと。その辺、日本より厳しいように思われる。
 ヤワラちゃんのご主人による「勝ったら子づくり」という強力なニンジン、じゃなくて励まし、柔道の谷本選手の思わず抱きつく古賀コーチとの師弟愛、阿武選手の兄による献身、野村選手の美人妻や、競泳の山本選手の千葉すずによる嫁パワー、それからオカルトっぽい、長嶋さんのユニフォームってのもありましたが、大舞台になればなるほど、身近な人が支えている。「事故のことが頭を離れた日はなかった」というクロウ選手。胸の内の悲しみはどれほどだろうか。
 一方、愛くるしさに国民がみんなテレビの前で目を細め、「ターッ」だか「シャーッ」だかのかけ声が謎を呼ぶ卓球愛ちゃん。1戦目を友と闘って勝ち上がったとき、次の試合前に「前の試合で一度死んだ。新たな気持ちで今度の試合に臨む」というようなことを言った。この言葉は、仲間内でも話題になった。「あれはコーチか誰か大人がそういったに違いない」「いや、それでもその言葉はすごい」「一度死ぬってどんなんだろう」などなど。
 話が飛ぶが、今私は鈴虫の世話で大変忙しい。知人から卵セットが送られてきたのが7月の初めで、ようやく成虫となり涼しげに鳴き始めたところ。友人知人に配りまくったがまだ50匹以上はいる。今年で3シーズン目だが、先日、始めて最後の脱皮の一部始終を見た。頭を下にした鈴虫の背中の色が薄くなり、少しずつ盛り上がる。忙しく動いていた触覚が動きを止めたかと思うと、中から少し透けている体がズルッと出てくる。しばらくすると新しい触覚と足が動き出し、さらに時間をかけてお尻と後ろ足が出てくる。最後に天使の羽のようにクシュクシュになって背中についている白い羽が徐々に広がって伸びてくる。全部見届けると小一時間はかかる目くるめく脱皮ショウ。
 脱皮というのは、一度死ぬことだったんですね。服を脱ぐというような簡単なものではなく、さっきまで動いていた触覚や足が死んで、新しい触覚と足が出てくるのである。そして身体は前より大きくなる。
 愛ちゃんのいう「一度死ぬ」というのは、もしかすると脱皮に近いのかもしれない。そういえば「一皮むけた」という表現もある。一皮むけたというのは結果であって、その過程は、一度死ぬくらいのことが起こっているに違いない。
 自分だけでは自分の強さや弱さはよくわからない。他人との衝突によって始めて今の自分の限界を知る。私もこのところ他人との衝突により、へこむことが多い。そうか。脱皮すればいいんだ。脱皮、脱皮!!ま、やろうと思ってできるものでもないだろうが。でも、自分の現状のスタイルに限界が見えるということは、ある意味喜ばしいことなのかも。「一度死んで」次に行けるかもしれないから。
 そんなミクロな事情はともかく、クロウ選手は、本当に死にかけたのだし、恋人を自分の過失で喪い、死ぬよりつらかったに違いない。「一度死んだ」はシャレにならない。でも、チームメートが「これからつらいと思うが、チームで弁護士費用の一部をカンパしたりして精神的な支えになりたい。大会が終わっても私たちは友達」と話していることは救いだ。名前は「苦労」だけど、それを分かち合える友達がいて本当によかった。←ちょっと涼しくなりました?

Posted by HH at 20:26 KDT
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Wed, Aug 4 2004
女の子のあそこの呼び名
 このところ、とてもヒューマンな味を出し、ドラえもんののび太がお父さんになったような風貌で露出の多い作家の重松清氏。爆笑問題が司会の番組に出演して、オナニーのおかず本について語ったり、女性セブンの「シリーズ人間」のライターを務めるなど、作家先生の枠にとらわれていない様子。特に、続発する少年少女の事件などについて新聞や雑誌に書かれた彼の文章は印象深い。
 人の話を聞く耳を持つ者は、あっちの声、こっちの声を考慮するので、どうしても立場が定まらず、なかなか切れ味鋭く何かを批判するというわけにいかなくなる。子どもが子どもを殺す陰惨な事件に対して、重松氏は、同年代の子どもを持つ親として、何だか本当に途方に暮れている感じだ。でも、その弱り果て方が誠実なので、つい、一緒に考えてしまう。自分だったらどうだろうかと。
 現在、毎日新聞生活面で月に2回、重松清が「子どものこと話そう」という渋い連載を持っている。読者に対して、PTAのことや、ゲームのさせ方などなど親子のさまざまな問題を投げかけ、それに対する読者の意見を次回に紹介していく形で、いわばTBSラジオ「アクセス」のゆっくり版。かなり前の話題だが、2月〜3月にかけての「女性性器の呼び方」はなかなかスリリングだった。「女の子のあそこは幼児用の言葉で何て呼ぶの?」の投書をきっかけに、相当な意見が集まった。
 実は、私も女の子のあそこの呼び方には疑問を持っていた。娘が3歳の時、保育園でソニン似の可愛い保育士さんが、「今日、オチンチンが痛いというので確認しましたが、オムツかぶれかも...」と言う。オチンチン...??我が耳を疑った。男女共同参画の昨今、男も女もオチンチンと呼ぶことに決めたのだろうか??またある日、保育園の友だち(女の子)の家で、やはりオムツかぶれの話になり、そのママ(美人)がぞんざいな言い方で口にした。「チンチンのとこが腫れてるのよ」。チンチン...?解せない。女の子のあそこは断じてオチンチンではないのに〜。私にはものすごく抵抗がある。
 先の「子どものこと話そう」に寄せられた呼び名を見ると、実にいろいろ。方言あり、母が編み出した呼び名あり。うーむ。おちんちんも入っている!

【引用開始】
おちょんちょん・バルバ・ヴァギナ・まんこ・だいじ・おまんじゅう・まんちょめ・おまた・だいじい・ぺぺちゃん・おちんちん(男性器と同じ)・まんまん・まんまんまん・おまんちょ・おじょじょ・おだいじ・おちょこ・おぴっぴ・らんらん・おかいちょう(「お開帳」の意。ちなみに男性器は「お富士さん」)・かもかも・おちょ・おちーこ・おすずちゃん・ほとちゃん・ちんのお子さま(男性器は「ちん太郎」)・おめおめ......。
【引用終わり】

 重松清は、【なによりうれしかったのが、皆さん、頭でっかちの「論」ではなく、臨場感たっぷりの「体験」としてテーマをとらえて】いたことで、【女性器の呼び名や性との付き合い方を教えるのは】、【会話の息づかいも含めてのものなんだな。そして、投稿にこんなにも会話の場面が多かったというのは、我が子に性を教える場面が家族の歴史の中でいかに忘れがたいか−−の証しかもしれない。】と書く。
 うちでは、上記にはないが、私が生まれ育った愛知県で使っている呼び名を教えている。特に小さい頃は「ちゃん」付けで呼んだ。大事にするように、愛しく思うように願って。オチンチンというような全国的に誰でも口にできる呼び名はないが、基本的には女の子と身近な年長者である親、特に母親との、とても個人的な毎日の会話から、女性性器の位置づけがなされ、それを通じて、女として生きることはどういうことかというベースが作られるのではないか。それは、ファンタジー小説で、魔法使いが老師から「真実の名」とか「呪文」を教えられるような感じに近いと思う。めったやたらと口にするものではないが、ちゃんとした個人的な関係の中で与えられた言葉が、後々力になってくれるのではないかと思ったりして。まあ、先のことはわからないわけですが。
 ところで、しばらくの休刊の後に復活した週刊『アクション』が疾走している。とても充実したラインナップだが、中でも楽しみなのは、さそうあきら「コドモのコドモ」。小学5年の女の子が、幼なじみの男の子と意味もわからないまま「くっつきっこ」(セックス)をして母親になる(はず)。第7話まで来ているのだが、本人だけが体調の異変に気づいた状態。毎号「出産まであと○○日」とカウントダウンが進むのでドキドキ。大人びた部分も少しあるが、やっぱり子どもだというような幼い部分を併せ持つ、今どきの女の子の感性がたまらなくリアル。あと7カ月ほど?後のコドモの出産にリアルタイムで立ち会いたい。
 マンガの中の性教育の授業では、マジメな女教師が「ヴァギナ」「ペニス」と教えようとして、他の教師は「両方おちんちんで行くんじゃないんですか」みたいなことを言ったり。やっぱり女の子のあそこの呼び名には困っているようだ。

Posted by HH at 22:22 KDT
Updated: Wed, Aug 4 2004 22:49 KDT
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Sat, Jun 19 2004
石井さん、うさぎさんは武芸者であ
 中村うさぎさんが第5弾車座トークバトルに特別ゲストとして来てくださった。いや〜お美しい。ほとんどスッピンのお肌がピカピカとまぶしかった。ご本人は「整形してるから」とおっしゃいますが、姿形が整っていることよりも、意志の強さが全身から立ち上っていることに、ある意味、武芸者のようなスキのない構えの美を感じた。

 さて、うさぎさんが今回お話しされた中で、印象深いのは、「自分を簡単に好きにならなくてもいいのだ」ということと「他者と簡単に共感できるはずがないのだ」ということ。(ちょっと使っている言葉が違うかもしれないが)。

 「自分を好きになる」「他者との共感」は、いずれも危なっかしい言葉だ。この2つからは、狭い仲間内だけで共感し、その共感をテコに自分を好きになるという世界も導き出せるから。例えば、辛い状況に置かれた者にとっては、そのような強く閉じた仲間をつくることが生きるために必要だろう。しかし、仲間との共感を重要視する世界観は、容赦のない異物排除に通じている。うさぎさんは、議論がそちらの方向に行ってしまうことを言葉を選んで、ていねいに避けようとしていた。何て頭のいい、カッコイイ人なんだろうと思った。

 世代により、仕事により、年収により、学歴により、趣味により、人の価値観はバラバラに分かれている。価値観もスタイルもバラバラで、およそ共感などできない人たちと、どう折り合っていくのかは、とても今日的で切実な課題である。むしろ「共感できない」部分を尊重するあり方を考えないといけないのだから。

 議論はともすると「良い子」の方向に行った方が結論として落ち着くし、何だか誉められそうである。「自分を好きになりましょう」「コンプレックスは解消しましょう」「問題を直視しましょう」等々。でも、なごや博学本舗の「博学」の「学」の由来でもあり、敬愛する宮崎学氏が最も嫌う、小学校のホームルームで「廊下を走らないようにしましょう」とまとめるような議論には、博学本舗の名に賭けてできないのである。

 本舗スタッフも、参加者も、石井政之さんのツッコミに対してどうか簡単に反省しないでほしい。石井さんは今回、自分のデリケートな部分を情緒的に語ることを避け、ユニークフェイスの問題を語りきった。それは見事という他ない。少しもぶれない姿勢は、やはり百戦錬磨の武芸者のよう。問題の存在すら知らず、鈍感に過ごしている者たちには少し傷つけるくらいに言わないと、響かないことを思い知っているのであろう。

 しかし、その先の「ユニークフェイス(顔)を直視せよ」と迫る石井さんの姿勢は有効だと思えない。私は石井さんと3回お会いしているが、別にアザを直視などしていない。かといって見ないようにしているわけでもない。いざ対面して言葉を交わせば、「石井さん」という全存在が現れてくる。アザの存在は確かに大きいのかもしれないが、やっぱり石井さんの一部であって全部ではないと感じられるから。ししかし、アザ(顔)を直視せよと前面に押し出すと、かえってアザ(顔)以外の部分が見えなくなるのである。この辺は、ユニークフェイスの世間における認知を考えている石井さんとしても悩ましいところではないだろうか。

 一方、顔にアザがあるわけでもなく、むしろ中の上以上の容姿を持っていたうさぎさんは、どういうわけだか過剰なまでの自意識を抱えている。他人から贅沢だと言われようが、特大の暴れ馬のような自意識を抱えているから仕方ないのである。暴れ馬にまたがりロデオ状態で落っこちそうになりながら、その一部始終を冷徹な目で見て言葉に表していく。そこが見事だし、そんな芸当は凡人にはできない。

 うさぎさんが重要視しているのは、「自分を好きになる」ことよりも、「省みて悔いのない人生を歩む」ことと受け止めた。今の自分に居心地が悪いと感じるのなら、何かによってへこまされている不幸を呪ってなどいないで、思うとおりに動き出せ、それで堕ちても構わないではないかと。本人はそんなことを発言したわけではない。でも、うさぎさんはそのように生き、彼女の背中はそう語っているのである。ただし、凡人は真似しないようにとも言ってるので、そこのところを間違えないように。凡人の我らは、暴れ馬ならぬ竹馬を乗りこなして歩もう。「生きよ堕ちよ」ではなく「生きよコケよ」程度で。

Posted by HH at 01:01 KDT
Updated: Wed, Aug 4 2004 22:55 KDT
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Tue, May 11 2004
小さな事ほど悲しい:美醜論によせ
『トリビアの泉』の司会の高橋克実がついにカツラを脱いだ。私は5月5日の放送で見て驚いたのだが、実は既にその前の週に脱いでいたようだ。もともと、本人もカミングアウトしており、雀が上手に編み上げた巣のような髪型がカツラであることは有名。ゴールデンウィークに合わせ?、満を持して披露したわけである。ツルっぱげなのかと思いきや、おでこから後退し、頭頂にかけて薄い程度であった。

 意外なことに、ナチュラルな髪になってみると、割と男前なのだと気づく。その日は、トリビアがひとつ終わるごとに入れていた一言ボケがなく、無口のまま進んだ。そして『トリビアの種』のコーナーで、唐突に「過ぎたるは及ばざるが如しっ!」と叫んだのだが、それって己のアタマのことですね。恥ずかしさを振り払うような感じに、何かこうドキッと惹かれるものがあった。結構いい男なのである。

 あれだけコミカルな持ち味の俳優さんで、しかも、カミングアウトしているのに、やはり恥ずかしく緊張するものなのだなあ。ハゲってどうしても笑いの対象になりがちだけど、本人にとっては極めてデリケートなことなのだと、改めて思った。

 いつも仕事をお願いしているデザイン事務所の社長(40代後半)は、矢沢永吉似のかっこいいアニキだが、頭髪が気になるお年頃。一族にはハゲが多く、子どもの頃から将来を案じていたとか。ハゲの話題になり、「屋久島の縄文杉とか、富士山とか、ものすごく素晴らしい自然に接したとしても、もし自分がハゲなら、それが気になって、美しいとか、自分も自然の一部だとか、そんな風に素直に感動できないだろう。その前に俺のハゲを何とかしてくれと言いたくなる!」と。

 ヅラをつけたアニキのある友人は、ゴルフに一緒に行き、風呂に一緒に入ってもヅラを決して脱がないらしい。もちろん髪は洗わず、おでこに汗をダラダラとしたたらせながら、鬢のところだけを小刻みに洗うのだそうだ。アニキは、仲のいい友人であっても一生気づかないふりをして墓まで持っていくんだという。

 デブは努力でいくらか改善できる。でも、ハゲは持って生まれた体質で決まる。後退はあっても前進はないのだ。新技術のカツラを使っても、心から身をゆだねることはできないだろう。いつ取れたり、バレたりするかわからないから。

 アニキはさらに「ハゲって、人から見れば小さな事かもしれないけど、人って、大きな事よりも小さな事の方が悲しいのよ。たとえ仕事で大成功して、いい外車に乗っていようが、ハゲのくせにって言われたらもうそれで台無し。こう言うと何だけど、イラク戦争のような大きな事よりも、小さな事の方が実際は悲しいのよ」と言う。

 自分自身のことや、身の回りの小さな範囲で起こる小さな事こそ悲しい。その通りだ。アニキは強面だが、心優しく相手を包むような一面があり、話しているとしばしばハッとする。イラク戦争が悲しくないわけじゃないけど、まずは自分の生活における悲しさが実感されていないと、リアルな健全な創造力も働かないような気がする。

 イラクの人質騒ぎなどでも、ネットを中心にヒステリックな意見が飛び交ったという。ネットはものすごく便利なので、自分がハゲやら、ブスやらを気にするケチな存在であることを、つい忘れてヒステリックな意見に同調してしまったりする。ていうか、忘れるためにのめり込んでいる面もあるかもしれない。それも悲しい。電脳生活は必須だが、自分はブスだという小さな事を見捨てないで、ちゃんと暮らしたいと思うのである。

Posted by HH at 01:01 KDT
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Wed, Apr 14 2004
イヤ汁を滴らせ、負け犬たちは行く
 すごーく売れている酒井順子著『負け犬の遠吠え』を読んだ。いやー、面白いです。この本や『結婚の条件』(小倉千加子著)が売れたことによって、世に大量発生している未婚の30代以上の女に、そろそろ世間の皆さんが目を向け始めたわけですね。

 「負け犬」の定義は、狭義には「未婚、子なし、30代以上」で、広義には「普通の家庭を築いてない人」のこと。

 小倉千加子は『結婚の条件』で、結婚の目的が階層(学歴と容貌の優劣に基づく)によって「生存→依存→保存」と変わると喝破している。酒井は、ここでいう「保存」つまり、自分の趣味や生き方を変えずに自己保存できる相手とならば結婚するが、それ以外とは積極的に結婚しないという、彼女自身がそうであるような高学歴で仕事を持つ独身女性に焦点を当てている。そして見た目はオシャレで華麗、中身は孤独な負け犬の性質やライフスタイルについて考察してゆく。

 例えば、負け犬は歌舞伎や狂言、落語などの伝統芸能に入れ込んでいたり、フラメンコやフラダンスなどを踊りまくっているとか。
  先日、昔のバイト仲間2名(40代独身女性)が、ともに歌舞伎フリークだと知り意外に思ったが、全国的にそうだったのか!ひとりはエアロビックで汗流してるし!2人ともオシャレで格好いいし。また、別の友人負け犬は、年に1度は大好きな海外に出掛け、自然食品を好み、豆を煮るのが得意なオーガニック女だ。そうそう、そうだよねと、大いに納得。

 思えば、中野翠が『ウテナさん祝電です』を出したのは今から20年前の1984年。私は「アグネス論争」(今や懐かし〜い!)のときに、初めて中野翠という名を知り、2、3年遅れで読んだっけ。当時30代後半、独身の彼女はこんな風に書く。

「他人はあてにできないと思っているのね。シッカリした松葉杖を引き当てるのを、いつまでも待っている気にはなれないのね、きっと。(ホント、いたずらに長い時間待ってしまった...)、だから、脚が痛かったり、ブザマな歩き方になっちゃったりしても、松葉杖なしで歩いてみたいと思っているのね、きっと」

 それは堂々たる「負け犬」宣言であった。群れに入らず、自分の感覚だけを頼りに「嫌なものは嫌」とはっきり言い、世の「常識」に媚びない。でも決して糾弾型にならず、軽やかに洒落っけたっぷり。(当時22、3の私は、そうやって生きていっていいんだ!と感激。少なからず影響を受け、結果として広義の負け犬となったわけだが...)。

 当時は、開き直って気楽な反面、風がビュービュー吹く荒野をズンズンと独りで突き進んでいくキビシさもまだ漂わせていた。そこがカッコよくもあった。
  ところが、20年を経て負け犬が大量発生し、世間のプレッシャーをはねのけるだけの一大勢力となった。そりゃあ、もう、普通にまったりとしたものよ。でも、そのまったりは成熟でもあって、ここに至りようやく酒井のような、ひねくれるでもなく、天の邪鬼でもないウイットに富んだ余裕ある態度が生まれたとも言える。

 酒井の基本スタンスは「既婚子持ち女に勝とうなどと思わず、とりあえず『負けました〜』と、自らの弱さを認めた犬のようにお腹を見せておいた方が、生きやすいのではなかろうか?」だ。
  「世間」が悪い!と、やたら対立するのではなく、「世間」に自分のお腹(柔らかくて弱い部分)をさらしつつ歩み出し、自分を位置づけようとする試みである。それは、自覚をもった大人にしかできない態度であり、自分を、本当にしっぽを巻いて逃げる負け犬と規定する者には決してできないことだ。「酒井負け犬」は、テヘヘと舌を出し、しっぽをフリフリしているお茶目犬って感じ。

 そして、ウームとうなったのが「イヤ汁」のくだり。イヤ汁とは「おっかけに熱中する人から滴る、モテなかった過去というものが煮詰まってできたようなイヤ汁」のようにあらわす、イヤーな汁のこと。伝統芸能や旅行など何でもよいが、何かにハマっている依存症の人から「欲求不満とかあがきとかいいわけとか嫉妬とかいったものが、ドロドロに混ざった上で発酵することによって滴る」ように感じられるという。
 酒井は、自分からも往々にしてイヤ汁が出ていることを自覚し、「せめて自分を棚に上げて他人のイヤ汁を差別しないようにしたい」という。この人、好き勝手に生きつつも、そういう自分を冷めた目で見て、居住まいを正そうとしている。いわゆる自分ツッコミ。そのバランスの取り方が面白いのだ。

 イヤ汁は、別に負け犬だけから大量に出ているわけではなく、「勝ち犬=既婚女性」からだって出ている。雑誌『Story』に取り上げられるような、金持ちの旦那と、有名私立幼稚舎に入るような子どもたちの揃った家庭を築いた上に、「自分らしさ」まで求めて趣味に熱中していたりする究極の勝ち犬主婦からだって、往々にして滴るのだ。(彼女たちは『結婚の条件』に登場する。)
  イヤ汁は、勝ち犬負け犬を問わず、他を省みずに自分たちが特権的な層にいる(いたい)という人々の、エゴイズムの固まりから発するのかもしれない。

 一方、娘の保育園では、パートで家計を支え、二の腕を太くして家事育児をほとんど担当し、夫の親まで面倒見ているような快活な母親たちに出会う。勝ち犬ではあるが「勝ち組=経済的に裕福な階層」とはいえない彼女たちから、イヤ汁と反対の、神々しい汁がほとばしっているように見えたりする。女なんだけど「男気のある」態度だなぁとも思う。自分にはそこまでできない・・・。しかし、それはそれで大変なのだ。
 世の親の中には、魔が差して、パチンコをやっている間に子どもを車で熱中症にしてしまうような、「鬼汁」を出す人だっている。(保育園の母親たちは、そんなことはない)。が、人間はうまくいっているように見えても、ときどき居住まいを正さないと、いつだって醜く堕ちてしまうのかもしれない。

 勝ち犬であれ負け犬であれ、金持ちでも貧乏でも、現実では、どこかいびつに偏って生きているのだし、近代の宿命としてエゴイズムからはなかなか逃れられない。せめて、ときどき自分のイヤ汁にハッとして、他の人に腐臭をまき散らさないような形の、自分なりのいびつさに作りあげていきたいわけである。
  それは「ナンバーワンよりオンリーワン♪」で有名な「世界にひとつだけの花」で歌われるように「ひとりひとり違うたね」によってオンリーワンが約束されたかのような明るい道ではなく、あがきながら間違いながら、恥と迷惑をまき散らしながら、ごくたまに誰かとスキップするかもしれないけど、基本的にはひとりで歩く道だろう。その点では20年前の中野翠から大して変わっていない。

 でも、もはや勝ち犬と負け犬が対立する時代は「世間」の期待に反して、いつのまにか終わっているのではなかろうか。というか、意味がなくなっているのでは?
  勝ち犬はいつ負け犬に転落するかわからないし、「自分らしさ」を求める勝ち犬主婦の感性は、かなり負け犬に近いものがある。闘いの終わりを負け犬の側から、そっと告げているのが『負け犬の遠吠え』なんである。
 そして今後は、男女ともに、小倉千加子が言うような経済的な階層としての「勝ち組」「負け組」の差の方が深刻になるだろう。

Posted by HH at 01:01 KDT
Updated: Thu, Aug 5 2004 00:06 KDT
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