まかない係雑記
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Nagoya hakugaku-hompo
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Wed, Aug 4 2004
女の子のあそこの呼び名
 このところ、とてもヒューマンな味を出し、ドラえもんののび太がお父さんになったような風貌で露出の多い作家の重松清氏。爆笑問題が司会の番組に出演して、オナニーのおかず本について語ったり、女性セブンの「シリーズ人間」のライターを務めるなど、作家先生の枠にとらわれていない様子。特に、続発する少年少女の事件などについて新聞や雑誌に書かれた彼の文章は印象深い。
 人の話を聞く耳を持つ者は、あっちの声、こっちの声を考慮するので、どうしても立場が定まらず、なかなか切れ味鋭く何かを批判するというわけにいかなくなる。子どもが子どもを殺す陰惨な事件に対して、重松氏は、同年代の子どもを持つ親として、何だか本当に途方に暮れている感じだ。でも、その弱り果て方が誠実なので、つい、一緒に考えてしまう。自分だったらどうだろうかと。
 現在、毎日新聞生活面で月に2回、重松清が「子どものこと話そう」という渋い連載を持っている。読者に対して、PTAのことや、ゲームのさせ方などなど親子のさまざまな問題を投げかけ、それに対する読者の意見を次回に紹介していく形で、いわばTBSラジオ「アクセス」のゆっくり版。かなり前の話題だが、2月〜3月にかけての「女性性器の呼び方」はなかなかスリリングだった。「女の子のあそこは幼児用の言葉で何て呼ぶの?」の投書をきっかけに、相当な意見が集まった。
 実は、私も女の子のあそこの呼び方には疑問を持っていた。娘が3歳の時、保育園でソニン似の可愛い保育士さんが、「今日、オチンチンが痛いというので確認しましたが、オムツかぶれかも...」と言う。オチンチン...??我が耳を疑った。男女共同参画の昨今、男も女もオチンチンと呼ぶことに決めたのだろうか??またある日、保育園の友だち(女の子)の家で、やはりオムツかぶれの話になり、そのママ(美人)がぞんざいな言い方で口にした。「チンチンのとこが腫れてるのよ」。チンチン...?解せない。女の子のあそこは断じてオチンチンではないのに〜。私にはものすごく抵抗がある。
 先の「子どものこと話そう」に寄せられた呼び名を見ると、実にいろいろ。方言あり、母が編み出した呼び名あり。うーむ。おちんちんも入っている!

【引用開始】
おちょんちょん・バルバ・ヴァギナ・まんこ・だいじ・おまんじゅう・まんちょめ・おまた・だいじい・ぺぺちゃん・おちんちん(男性器と同じ)・まんまん・まんまんまん・おまんちょ・おじょじょ・おだいじ・おちょこ・おぴっぴ・らんらん・おかいちょう(「お開帳」の意。ちなみに男性器は「お富士さん」)・かもかも・おちょ・おちーこ・おすずちゃん・ほとちゃん・ちんのお子さま(男性器は「ちん太郎」)・おめおめ......。
【引用終わり】

 重松清は、【なによりうれしかったのが、皆さん、頭でっかちの「論」ではなく、臨場感たっぷりの「体験」としてテーマをとらえて】いたことで、【女性器の呼び名や性との付き合い方を教えるのは】、【会話の息づかいも含めてのものなんだな。そして、投稿にこんなにも会話の場面が多かったというのは、我が子に性を教える場面が家族の歴史の中でいかに忘れがたいか−−の証しかもしれない。】と書く。
 うちでは、上記にはないが、私が生まれ育った愛知県で使っている呼び名を教えている。特に小さい頃は「ちゃん」付けで呼んだ。大事にするように、愛しく思うように願って。オチンチンというような全国的に誰でも口にできる呼び名はないが、基本的には女の子と身近な年長者である親、特に母親との、とても個人的な毎日の会話から、女性性器の位置づけがなされ、それを通じて、女として生きることはどういうことかというベースが作られるのではないか。それは、ファンタジー小説で、魔法使いが老師から「真実の名」とか「呪文」を教えられるような感じに近いと思う。めったやたらと口にするものではないが、ちゃんとした個人的な関係の中で与えられた言葉が、後々力になってくれるのではないかと思ったりして。まあ、先のことはわからないわけですが。
 ところで、しばらくの休刊の後に復活した週刊『アクション』が疾走している。とても充実したラインナップだが、中でも楽しみなのは、さそうあきら「コドモのコドモ」。小学5年の女の子が、幼なじみの男の子と意味もわからないまま「くっつきっこ」(セックス)をして母親になる(はず)。第7話まで来ているのだが、本人だけが体調の異変に気づいた状態。毎号「出産まであと○○日」とカウントダウンが進むのでドキドキ。大人びた部分も少しあるが、やっぱり子どもだというような幼い部分を併せ持つ、今どきの女の子の感性がたまらなくリアル。あと7カ月ほど?後のコドモの出産にリアルタイムで立ち会いたい。
 マンガの中の性教育の授業では、マジメな女教師が「ヴァギナ」「ペニス」と教えようとして、他の教師は「両方おちんちんで行くんじゃないんですか」みたいなことを言ったり。やっぱり女の子のあそこの呼び名には困っているようだ。

Posted by HH at 22:22 KDT
Updated: Wed, Aug 4 2004 22:49 KDT
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Sat, Jun 19 2004
石井さん、うさぎさんは武芸者であ
 中村うさぎさんが第5弾車座トークバトルに特別ゲストとして来てくださった。いや〜お美しい。ほとんどスッピンのお肌がピカピカとまぶしかった。ご本人は「整形してるから」とおっしゃいますが、姿形が整っていることよりも、意志の強さが全身から立ち上っていることに、ある意味、武芸者のようなスキのない構えの美を感じた。

 さて、うさぎさんが今回お話しされた中で、印象深いのは、「自分を簡単に好きにならなくてもいいのだ」ということと「他者と簡単に共感できるはずがないのだ」ということ。(ちょっと使っている言葉が違うかもしれないが)。

 「自分を好きになる」「他者との共感」は、いずれも危なっかしい言葉だ。この2つからは、狭い仲間内だけで共感し、その共感をテコに自分を好きになるという世界も導き出せるから。例えば、辛い状況に置かれた者にとっては、そのような強く閉じた仲間をつくることが生きるために必要だろう。しかし、仲間との共感を重要視する世界観は、容赦のない異物排除に通じている。うさぎさんは、議論がそちらの方向に行ってしまうことを言葉を選んで、ていねいに避けようとしていた。何て頭のいい、カッコイイ人なんだろうと思った。

 世代により、仕事により、年収により、学歴により、趣味により、人の価値観はバラバラに分かれている。価値観もスタイルもバラバラで、およそ共感などできない人たちと、どう折り合っていくのかは、とても今日的で切実な課題である。むしろ「共感できない」部分を尊重するあり方を考えないといけないのだから。

 議論はともすると「良い子」の方向に行った方が結論として落ち着くし、何だか誉められそうである。「自分を好きになりましょう」「コンプレックスは解消しましょう」「問題を直視しましょう」等々。でも、なごや博学本舗の「博学」の「学」の由来でもあり、敬愛する宮崎学氏が最も嫌う、小学校のホームルームで「廊下を走らないようにしましょう」とまとめるような議論には、博学本舗の名に賭けてできないのである。

 本舗スタッフも、参加者も、石井政之さんのツッコミに対してどうか簡単に反省しないでほしい。石井さんは今回、自分のデリケートな部分を情緒的に語ることを避け、ユニークフェイスの問題を語りきった。それは見事という他ない。少しもぶれない姿勢は、やはり百戦錬磨の武芸者のよう。問題の存在すら知らず、鈍感に過ごしている者たちには少し傷つけるくらいに言わないと、響かないことを思い知っているのであろう。

 しかし、その先の「ユニークフェイス(顔)を直視せよ」と迫る石井さんの姿勢は有効だと思えない。私は石井さんと3回お会いしているが、別にアザを直視などしていない。かといって見ないようにしているわけでもない。いざ対面して言葉を交わせば、「石井さん」という全存在が現れてくる。アザの存在は確かに大きいのかもしれないが、やっぱり石井さんの一部であって全部ではないと感じられるから。ししかし、アザ(顔)を直視せよと前面に押し出すと、かえってアザ(顔)以外の部分が見えなくなるのである。この辺は、ユニークフェイスの世間における認知を考えている石井さんとしても悩ましいところではないだろうか。

 一方、顔にアザがあるわけでもなく、むしろ中の上以上の容姿を持っていたうさぎさんは、どういうわけだか過剰なまでの自意識を抱えている。他人から贅沢だと言われようが、特大の暴れ馬のような自意識を抱えているから仕方ないのである。暴れ馬にまたがりロデオ状態で落っこちそうになりながら、その一部始終を冷徹な目で見て言葉に表していく。そこが見事だし、そんな芸当は凡人にはできない。

 うさぎさんが重要視しているのは、「自分を好きになる」ことよりも、「省みて悔いのない人生を歩む」ことと受け止めた。今の自分に居心地が悪いと感じるのなら、何かによってへこまされている不幸を呪ってなどいないで、思うとおりに動き出せ、それで堕ちても構わないではないかと。本人はそんなことを発言したわけではない。でも、うさぎさんはそのように生き、彼女の背中はそう語っているのである。ただし、凡人は真似しないようにとも言ってるので、そこのところを間違えないように。凡人の我らは、暴れ馬ならぬ竹馬を乗りこなして歩もう。「生きよ堕ちよ」ではなく「生きよコケよ」程度で。

Posted by HH at 01:01 KDT
Updated: Wed, Aug 4 2004 22:55 KDT
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Tue, May 11 2004
小さな事ほど悲しい:美醜論によせ
『トリビアの泉』の司会の高橋克実がついにカツラを脱いだ。私は5月5日の放送で見て驚いたのだが、実は既にその前の週に脱いでいたようだ。もともと、本人もカミングアウトしており、雀が上手に編み上げた巣のような髪型がカツラであることは有名。ゴールデンウィークに合わせ?、満を持して披露したわけである。ツルっぱげなのかと思いきや、おでこから後退し、頭頂にかけて薄い程度であった。

 意外なことに、ナチュラルな髪になってみると、割と男前なのだと気づく。その日は、トリビアがひとつ終わるごとに入れていた一言ボケがなく、無口のまま進んだ。そして『トリビアの種』のコーナーで、唐突に「過ぎたるは及ばざるが如しっ!」と叫んだのだが、それって己のアタマのことですね。恥ずかしさを振り払うような感じに、何かこうドキッと惹かれるものがあった。結構いい男なのである。

 あれだけコミカルな持ち味の俳優さんで、しかも、カミングアウトしているのに、やはり恥ずかしく緊張するものなのだなあ。ハゲってどうしても笑いの対象になりがちだけど、本人にとっては極めてデリケートなことなのだと、改めて思った。

 いつも仕事をお願いしているデザイン事務所の社長(40代後半)は、矢沢永吉似のかっこいいアニキだが、頭髪が気になるお年頃。一族にはハゲが多く、子どもの頃から将来を案じていたとか。ハゲの話題になり、「屋久島の縄文杉とか、富士山とか、ものすごく素晴らしい自然に接したとしても、もし自分がハゲなら、それが気になって、美しいとか、自分も自然の一部だとか、そんな風に素直に感動できないだろう。その前に俺のハゲを何とかしてくれと言いたくなる!」と。

 ヅラをつけたアニキのある友人は、ゴルフに一緒に行き、風呂に一緒に入ってもヅラを決して脱がないらしい。もちろん髪は洗わず、おでこに汗をダラダラとしたたらせながら、鬢のところだけを小刻みに洗うのだそうだ。アニキは、仲のいい友人であっても一生気づかないふりをして墓まで持っていくんだという。

 デブは努力でいくらか改善できる。でも、ハゲは持って生まれた体質で決まる。後退はあっても前進はないのだ。新技術のカツラを使っても、心から身をゆだねることはできないだろう。いつ取れたり、バレたりするかわからないから。

 アニキはさらに「ハゲって、人から見れば小さな事かもしれないけど、人って、大きな事よりも小さな事の方が悲しいのよ。たとえ仕事で大成功して、いい外車に乗っていようが、ハゲのくせにって言われたらもうそれで台無し。こう言うと何だけど、イラク戦争のような大きな事よりも、小さな事の方が実際は悲しいのよ」と言う。

 自分自身のことや、身の回りの小さな範囲で起こる小さな事こそ悲しい。その通りだ。アニキは強面だが、心優しく相手を包むような一面があり、話しているとしばしばハッとする。イラク戦争が悲しくないわけじゃないけど、まずは自分の生活における悲しさが実感されていないと、リアルな健全な創造力も働かないような気がする。

 イラクの人質騒ぎなどでも、ネットを中心にヒステリックな意見が飛び交ったという。ネットはものすごく便利なので、自分がハゲやら、ブスやらを気にするケチな存在であることを、つい忘れてヒステリックな意見に同調してしまったりする。ていうか、忘れるためにのめり込んでいる面もあるかもしれない。それも悲しい。電脳生活は必須だが、自分はブスだという小さな事を見捨てないで、ちゃんと暮らしたいと思うのである。

Posted by HH at 01:01 KDT
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Wed, Apr 14 2004
イヤ汁を滴らせ、負け犬たちは行く
 すごーく売れている酒井順子著『負け犬の遠吠え』を読んだ。いやー、面白いです。この本や『結婚の条件』(小倉千加子著)が売れたことによって、世に大量発生している未婚の30代以上の女に、そろそろ世間の皆さんが目を向け始めたわけですね。

 「負け犬」の定義は、狭義には「未婚、子なし、30代以上」で、広義には「普通の家庭を築いてない人」のこと。

 小倉千加子は『結婚の条件』で、結婚の目的が階層(学歴と容貌の優劣に基づく)によって「生存→依存→保存」と変わると喝破している。酒井は、ここでいう「保存」つまり、自分の趣味や生き方を変えずに自己保存できる相手とならば結婚するが、それ以外とは積極的に結婚しないという、彼女自身がそうであるような高学歴で仕事を持つ独身女性に焦点を当てている。そして見た目はオシャレで華麗、中身は孤独な負け犬の性質やライフスタイルについて考察してゆく。

 例えば、負け犬は歌舞伎や狂言、落語などの伝統芸能に入れ込んでいたり、フラメンコやフラダンスなどを踊りまくっているとか。
  先日、昔のバイト仲間2名(40代独身女性)が、ともに歌舞伎フリークだと知り意外に思ったが、全国的にそうだったのか!ひとりはエアロビックで汗流してるし!2人ともオシャレで格好いいし。また、別の友人負け犬は、年に1度は大好きな海外に出掛け、自然食品を好み、豆を煮るのが得意なオーガニック女だ。そうそう、そうだよねと、大いに納得。

 思えば、中野翠が『ウテナさん祝電です』を出したのは今から20年前の1984年。私は「アグネス論争」(今や懐かし〜い!)のときに、初めて中野翠という名を知り、2、3年遅れで読んだっけ。当時30代後半、独身の彼女はこんな風に書く。

「他人はあてにできないと思っているのね。シッカリした松葉杖を引き当てるのを、いつまでも待っている気にはなれないのね、きっと。(ホント、いたずらに長い時間待ってしまった...)、だから、脚が痛かったり、ブザマな歩き方になっちゃったりしても、松葉杖なしで歩いてみたいと思っているのね、きっと」

 それは堂々たる「負け犬」宣言であった。群れに入らず、自分の感覚だけを頼りに「嫌なものは嫌」とはっきり言い、世の「常識」に媚びない。でも決して糾弾型にならず、軽やかに洒落っけたっぷり。(当時22、3の私は、そうやって生きていっていいんだ!と感激。少なからず影響を受け、結果として広義の負け犬となったわけだが...)。

 当時は、開き直って気楽な反面、風がビュービュー吹く荒野をズンズンと独りで突き進んでいくキビシさもまだ漂わせていた。そこがカッコよくもあった。
  ところが、20年を経て負け犬が大量発生し、世間のプレッシャーをはねのけるだけの一大勢力となった。そりゃあ、もう、普通にまったりとしたものよ。でも、そのまったりは成熟でもあって、ここに至りようやく酒井のような、ひねくれるでもなく、天の邪鬼でもないウイットに富んだ余裕ある態度が生まれたとも言える。

 酒井の基本スタンスは「既婚子持ち女に勝とうなどと思わず、とりあえず『負けました〜』と、自らの弱さを認めた犬のようにお腹を見せておいた方が、生きやすいのではなかろうか?」だ。
  「世間」が悪い!と、やたら対立するのではなく、「世間」に自分のお腹(柔らかくて弱い部分)をさらしつつ歩み出し、自分を位置づけようとする試みである。それは、自覚をもった大人にしかできない態度であり、自分を、本当にしっぽを巻いて逃げる負け犬と規定する者には決してできないことだ。「酒井負け犬」は、テヘヘと舌を出し、しっぽをフリフリしているお茶目犬って感じ。

 そして、ウームとうなったのが「イヤ汁」のくだり。イヤ汁とは「おっかけに熱中する人から滴る、モテなかった過去というものが煮詰まってできたようなイヤ汁」のようにあらわす、イヤーな汁のこと。伝統芸能や旅行など何でもよいが、何かにハマっている依存症の人から「欲求不満とかあがきとかいいわけとか嫉妬とかいったものが、ドロドロに混ざった上で発酵することによって滴る」ように感じられるという。
 酒井は、自分からも往々にしてイヤ汁が出ていることを自覚し、「せめて自分を棚に上げて他人のイヤ汁を差別しないようにしたい」という。この人、好き勝手に生きつつも、そういう自分を冷めた目で見て、居住まいを正そうとしている。いわゆる自分ツッコミ。そのバランスの取り方が面白いのだ。

 イヤ汁は、別に負け犬だけから大量に出ているわけではなく、「勝ち犬=既婚女性」からだって出ている。雑誌『Story』に取り上げられるような、金持ちの旦那と、有名私立幼稚舎に入るような子どもたちの揃った家庭を築いた上に、「自分らしさ」まで求めて趣味に熱中していたりする究極の勝ち犬主婦からだって、往々にして滴るのだ。(彼女たちは『結婚の条件』に登場する。)
  イヤ汁は、勝ち犬負け犬を問わず、他を省みずに自分たちが特権的な層にいる(いたい)という人々の、エゴイズムの固まりから発するのかもしれない。

 一方、娘の保育園では、パートで家計を支え、二の腕を太くして家事育児をほとんど担当し、夫の親まで面倒見ているような快活な母親たちに出会う。勝ち犬ではあるが「勝ち組=経済的に裕福な階層」とはいえない彼女たちから、イヤ汁と反対の、神々しい汁がほとばしっているように見えたりする。女なんだけど「男気のある」態度だなぁとも思う。自分にはそこまでできない・・・。しかし、それはそれで大変なのだ。
 世の親の中には、魔が差して、パチンコをやっている間に子どもを車で熱中症にしてしまうような、「鬼汁」を出す人だっている。(保育園の母親たちは、そんなことはない)。が、人間はうまくいっているように見えても、ときどき居住まいを正さないと、いつだって醜く堕ちてしまうのかもしれない。

 勝ち犬であれ負け犬であれ、金持ちでも貧乏でも、現実では、どこかいびつに偏って生きているのだし、近代の宿命としてエゴイズムからはなかなか逃れられない。せめて、ときどき自分のイヤ汁にハッとして、他の人に腐臭をまき散らさないような形の、自分なりのいびつさに作りあげていきたいわけである。
  それは「ナンバーワンよりオンリーワン♪」で有名な「世界にひとつだけの花」で歌われるように「ひとりひとり違うたね」によってオンリーワンが約束されたかのような明るい道ではなく、あがきながら間違いながら、恥と迷惑をまき散らしながら、ごくたまに誰かとスキップするかもしれないけど、基本的にはひとりで歩く道だろう。その点では20年前の中野翠から大して変わっていない。

 でも、もはや勝ち犬と負け犬が対立する時代は「世間」の期待に反して、いつのまにか終わっているのではなかろうか。というか、意味がなくなっているのでは?
  勝ち犬はいつ負け犬に転落するかわからないし、「自分らしさ」を求める勝ち犬主婦の感性は、かなり負け犬に近いものがある。闘いの終わりを負け犬の側から、そっと告げているのが『負け犬の遠吠え』なんである。
 そして今後は、男女ともに、小倉千加子が言うような経済的な階層としての「勝ち組」「負け組」の差の方が深刻になるだろう。

Posted by HH at 01:01 KDT
Updated: Thu, Aug 5 2004 00:06 KDT
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